川崎の殺傷事件と人生の最期を自分で決められる権利

川崎で小学生と大人が次々と刺されて、小学生と保護者が亡くなるという痛ましい事件が起こりました。

 

犯人はそのまま自殺するという結末で、

 

死にたいからと起こした犯罪なのか?

 

誰かを道連れにしないといけなかったのか?

 

そんな疑問が頭をよぎります。

 

 

様々な対策が考えられているようですが、

 

こういう犯人が出にくい世の中を作れないか?

 

そんなことも考えてしまいます。

 

一つには社会を安定させるためには、格差を縮めることも一つだと思います。

 

ただ格差の縮小と簡単に言っても、口で言うほどは簡単ではないと思いますし、

 

それができたとしても、それほど大きな格差の縮小は難しいと思います。

 

例えば遊んでいる人と、

 

その間に努力を重ねてきた人がいて、

 

そこに収入に差があるのは当然のことですし、

 

その溝を大幅に埋めようとしても、簡単に同意が得られるものではないとも思います。

 

そう考えると、格差を縮めるとしても小さな範囲になってしまうとは思います。

 

 

また一つには過激な意見になるかもしれませんが、

 

ある年齢で死を迎えたいと思えばそれが叶う社会も、対策の一つになるような気がします。

 

こうした事件はたびたび起こってきましたが、

 

生きたいと願う人が、

 

死にたいと願う人と出会うことによって、

 

起こる悲劇があるのなら、

 

死にたいと願う人が死ねる社会であれば、

 

こうした事件が起こる可能性を減らせるような気がします。

 

 

またこの一手で、経済的にはデフレも一定程度は解消されると思います。

 

長寿社会だからこそ、若いうちからお金を貯めようという気持ちになりますし、

 

それがお金の消費量が落ちる原因の一つだと思います。

 

そこで人生の最期を決められる権利があれば、

 

そこまでの人生設計をすれば良いわけですので、お金の消費は増えると思います。

 

もちろん経済ありきで、こうしたことを考えたわけではありませんが、

 

経済の根本は人だと思いますので、

 

人が生きやすくなることで、経済は活性化するとも思います。

 

 

また人生の最期を自分で決められることは、

 

文明が発展して、人口が爆発的に増加している人類にとって、

 

自然と調和するためにも必要な一手になると思います。

 

自然の命は、食物連鎖のピラミッドを作っていますが、

 

頂点の人類だけが増えていき、他の動植物が絶滅などで少なくなれば、

 

ピラミッドのバランスが崩れてしまうことは目に見えていると思います。

 

そうした事態を少しでも和らげるためにも、

 

人生の最期を自分で決められる「権利」というものが、人類には必要だと思います。

 

人生100年時代が訪れると言われますが、

 

人生100年なんて長くないか?

 

そう思う自分もいます。

 

 

ちなみにこれは権利ですので、

 

選挙権のように使わなくても何も問題ないものになります。

 

人生の最期を決められること。

 

そのことで私が想定しているのは以上になります。